『ばけばけ』に出てきた【源助柱】とは?本当に実在するものか・名前の由来も調査

『ばけばけ』に出てきた【源助柱】とは?本当に実在するものか・名前の由来も調査
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ばけばけ』第7回に突如登場した「源助柱」なる柱とそのエピソードについて、気になった方も多いのではないでしょうか。

結論から言うと「源助柱」は実在した歴史的事実に基づく言葉で、島根県松江市の松江大橋に実際に存在した橋脚の名前です。

この名前には、江戸時代初期に起こった悲しい人柱伝説が関係しており、小泉八雲も著書で詳しく紹介しています。

本記事では「源助柱」が実在した事実から名前の由来、歴史的背景まで詳しく調査・解説します。

目次

『ばけばけ』に「源助橋」が登場した経緯

「源助柱」というワードが登場したのは、2025年10月7日に放送されたNHK連続テレビ小説『ばけばけ』第7回。

主人公・松野トキ(髙石あかり)が橋の前で祈りを捧げるシーンがあり、その際に友人のサワ(円井わん)が「源助柱」という言葉を口にしたのです。

トキとサワの

「私たちも人柱だな」

「なに柱だっけ?」

「源助柱?」

という会話から、

多くの視聴者がこの『「源助柱」とは一体何なのか』『実在するのか』などと疑問に思いました。

源助柱は実在した!松江大橋の歴史的事実

源助柱の基本情報

源助柱(げんすけばしら)は、島根県松江市の松江大橋に実際に存在した橋脚の名前です。

現在でも松江大橋南詰めの「源助公園」には、源助を供養する石碑が建てられており、地元の人々によって大切に守られ続けています。

松江大橋の歴史と建設背景

松江大橋の建設は、慶長12年(1607年)、堀尾吉晴の命によって開始されました。

松江開府にあたり、松江城築城のための資材や人馬を運ぶ必要があったため、それまでの「カラカラ橋」と呼ばれる簡易な竹橋から本格的な木造橋への架け替えが決定されたのです。

建設工事の困難さ

大橋川の川底は軟弱地盤で、何度も工事が失敗しました。

当時の記録によると

  • 巨石をたくさん投げ込んでも効果がなかった
  • 橋が完成してもすぐに柱が沈み出した
  • 洪水のために半数の柱が流された
  • 修復してもまた壊れるの繰り返し

このように、建設工事は困難を極めたそうです。

松江大橋の人柱伝説と源助の物語

人柱決定の経緯

工事の度重なる失敗に困り果てた末「水神の怒りを宥めるために人柱を立てる」ことが決定されました。

人柱の選定条件として「まちのない袴(行灯袴)を履いて橋を渡る男」が設定されました。

源助という人物

雑賀町に住む足軽の源助が、不運にも「まちのない袴」を履いて橋を渡ったところを見咎められ、人身御供として選ばれました。

源助は有無を言わさず箱に押し込められ、中央の橋脚の下に生きたまま埋められたのです。

「まちのない袴」の意味

「まち」とは股の部分を指し、「まちのない袴」とは股が分かれていないスカート状の袴のことです。

現在「行灯袴」と呼ばれるこの形は、源助の時代には珍しく、大多数は股が2つに分かれた「馬乗袴」でした。

珍しい行灯袴姿だったために、源助は不運にも人柱に選ばれてしまったのです。

小泉八雲が記録した「源助柱」の伝説

「神々の国の首都」での記述

小泉八雲は著書「神々の国の首都」で源助柱について詳しく記述しています。

八雲の記録によると

「この人柱に立った男は、雑賀町に住む、源助というものであった。

なぜこの男が人柱に立ったのかというと、

昔から、まちのついていない袴をはいて、はじめて新しい橋を渡ったものは、橋の下に生き埋めにされるという掟があって、たまたま源助はまちのない袴をはいて橋を渡ったところを見咎められたので、かれが人身御供に上がったというわけであった。

そんなわけでこの古い方の橋の、まんなかにあった橋杭は、犠牲者の名をそのままとって、三百年このかた、源助柱と呼ばれていた」

このような記述があるそうです。

怪異現象の記録

八雲は源助柱にまつわる怪異現象についても記録しています

  • 月のない晩など丑満時になると、源助柱のあたりにしきりと鬼火が飛んだ
  • 火の玉の色は赤だった

源助柱の名前の由来と意味

「柱」という呼び方の意味

「柱」という呼び方には深い意味があります。

人柱の「柱」とは

  • 建造物の構造的な柱だけではない
  • 神道において神を数える際の助数詞「柱(はしら)」の延長
  • 死者の霊魂を「人でありながら神に近しい存在」と考える概念
  • 対象に宿るアニミズム的な魂など霊的な装置

このような意味があるとされています。

なぜ「源助柱」と名付けられたのか

橋脚に源助の名前を冠したのは、彼の犠牲を忘れないためであり、感謝を込めて「源助柱」と呼び、手厚く供養したからでした。

この魂の入れられた建造物は、そうでない建造物に比べより強固に、自然の地形のように長く礎の機能を果たすと考えられていたのです。

松江に残るその他の源助伝説

お茶を2服飲む風習の由来

松江には源助にまつわる興味深い風習が残っています

「朝、お茶を飲んで出ようとする源助を妻が引き留めて2服目をすすめたけれども急ぐ源助は断りました。

2服目を飲んでゆっくり家を出れば人柱になることもなかったのに……と。

だから松江ではお茶を1杯だけで済ませるのは縁起が悪く、2服は飲むものだといわれます」

複数の伝説バリエーション

松江では源助柱の言い伝えにいくつかの説があります

  • 八雲の記した「まちのない袴」説
  • 「横縞の継ぎがあたった袴」の人物を選んだ説
  • 実は人柱の条件を言い出したのは源助自身だった説

現代に残る源助の供養

源助公園の石碑

松江大橋南詰めの「源助公園」には2つの石碑があります

  1. 人柱となった源助の碑
  2. 現在の橋の建設中に事故死した深田清技師の碑

龍覚寺での供養

大橋近くの龍覚寺には、源助の木像と石の源助地蔵が祀られており、源助地蔵は毎年8月の地蔵盆に「源助公園」に移されて地元の人の手で供養されています。

「昭和の源助」深田技師

昭和11年(1936年)、17代目の橋の建設中に深田清技師が落下したコンクリートバケットで頭を打って殉職しました。

深田技師が事故にあったのが、源助が埋められたとされる橋脚の側であったため、当時の新聞に「痛ましい昭和の源助」と報じられたのです。

人柱伝説の歴史的背景

日本の人柱文化

人柱(ひとばしら)とは、大規模建造物の無事完成や災害から守るために、建造物やその近傍に人間を生きたまま埋める風習です。

特に水に関わる工事で行われることが多く、以下のような統計があります

  • 堤防の人柱:130事例
  • 橋の人柱:26事例
  • 築城の人柱:13事例

江戸時代における変化

江戸時代に入り寛文・延宝頃をピークにして人柱伝説は減少していきました。

これは、近世の人々の意識変化や土木技術の発展により、人柱のような呪術的なものに頼るという発想が薄らいでいったためです。

『ばけばけ』での源助柱の扱い

ドラマでの描写

『ばけばけ』第7回では、トキが松江大橋を渡る際に手を合わせる姿が描かれました。

サワが「私たちも人柱」と語るシーンでは、源助の悲劇と明治時代の庶民の境遇を重ね合わせた深い表現となっています。

現代的な解釈

サワの「みんな、生贄(いけにえ)」という言葉は、実際に人柱になっていなくても、大多数の庶民たちは何かの犠牲になっているという現代的な解釈を示しています。

人柱の概念を発展させ、社会構造の中での犠牲を表現した巧妙な演出です。

源助柱が現代に伝える意味

歴史の教訓

源助柱の物語は、単なる伝説ではなく、困難な時代を生きた人々の犠牲と、それを忘れない地域の記憶を表しています。

現代でも石碑や供養が続けられているのは、その教訓を後世に伝える重要性があるからです。

技術進歩と人間の尊厳

江戸時代から現代にかけての土木技術の発展により、人柱のような犠牲は不要になりました。

ですが、人間の尊厳と技術進歩の関係について考えさせられる重要な歴史的事例となっています。

まとめ:『ばけばけ』の【源助柱】は実在する?

朝ドラ『ばけばけ』に登場した「源助柱」は、島根県松江市の松江大橋に実在した橋脚の名前で、江戸時代初期(1607-1608年)の悲しい人柱伝説に由来する歴史的事実です。

小泉八雲も著書「神々の国の首都」でこの伝説を詳しく記録し、源助柱の周りで鬼火が飛ぶ怪異現象についても言及しています。

現在も松江大橋南詰めの源助公園には供養の石碑が建てられ、龍覚寺では源助地蔵として毎年供養が行われているとのこと。

源助柱の名前には、犠牲者への感謝と鎮魂、そして神道的な霊魂観が込められており、単なる建造物の部位を超えた深い意味を持っています。

この歴史的事実は、困難な時代を生きた人々の犠牲を忘れない地域の記憶として、現代まで大切に継承され続けているのです。

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